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コラム2010年2月

謹 賀 新 年

平成22年1月29日

博愛病院 院長   山崎 剛

“老人問題は昔より悪くなっている”と考えている。「楢山節孝の姨捨て山」が老人問題としての一番の“人間の温かみ”を感じるのが不思議だ。

昭和31年頃より父(山崎滋)は老人問題に取り組んでいた。戦後10年だが、町には戦後の爪あとが残り、放浪者の姿が見られ、自殺未遂者、アル中患者も多かった。パトカーや救急車が行き倒れの人々を次々に運んでくる。当時は家族の居間にまで患者が溢れていた。生活能力の無い、立ち直る見込みの無い重い病気の老人、食事、入浴、排泄すべてつきっきりの世話が必要な行くあてもない老人。当時の看護職は大変な思いをしながら仕事をしていた。 40床程度の病院に昭和41年度の入院患者さんは86名でオーバーベッドも甚だしく、しかもほぼ全員が生活保護を受けている状況だった。

の指導を受け、当時医務技官の玉重先生がいつも間に入られていた。“心をごまかさず生きる”“正しい考えを身につける”“正しい事を正しく実行する”この3点が父の姿を通しての玉重先生の教えとして心に残っている。政治や行政の問題と一人の医療者として、人間として、父の存在の温かさを感じて育った。

老人の生活の安定と生き甲斐を高める事の物心両面から、終の棲家になる特別養護老人ホーム唐孔雀園が生まれたが、病弱な老人だけでも安心して医療を受け、暮らせる「総合医療施設」を父は考えていた。しかし、特例許可老人病院から特例許可外老人病院となり、月々100~200万の赤字が続く経営困難な病院になっていた。

当時厚生省の課長補佐が博愛病院を見学され、「老人問題は単に社会福祉的な発想だけでは解決しない」と話され、法律が変わる(介護保険)から“今後も老人医療、福祉に取り組んで下さい”と話された記憶がある。佐賀医大呼吸器外科に勤務する弟(世紀)に病院の現状を話した所、外科医として一番大切な成長の時期にもかかわらず、“放っておけん”の一言で再建に乗り出してくれた。

丁度2000年(H12年)に介護保険制度がはじまり、療養病床が医療保険と介護保険に分かれた。国はよくも「最悪のシナリオを作った」などと二人でずいぶん議論を重ね、父の希望である「病弱な老人が安心して医療を受けながら暮らせる病院」という事で介護療養型医療施設を選択した。しかし医療ニーズの高い人、認知症の周辺症状の多い人達で埋め尽くされ、大変な状況のもとで看護師、介護士は仕事をする事になった。“医療療養も介護療養もあったものではない”そんな病院の姿だった。それに加え最悪な事が次々とおこってきた。

小泉政権は「社会保障費・抑制計画」を出し、“歩きながら考える”と言った将来に希望がわいてくる様な言葉だが、この言葉は実際ひどいものだ。3年毎の保険料の見直しと5年毎の構造改革は3年毎の見直しで500万~700万/年削減、5年毎の改革で500万~700万/年削減と介護施設の年収が抑えられ、“抑えられた枠の中で分配する”。しかも平成14年より「毎年2200億円」を削減し、5年間で1兆1千億円の削減計画が実行されて、それも全くのごまかしで、毎年2200億円の削減が毎年2200億円削減を積み重ねて、2年目は4400億削減となり、5年目で3兆3千億円削減していたから又びっくり。やってもやっても生活が楽にならず、大学病院から医者はひきあげられるし、あらたに医者など雇えないし、現状では赤字経営をせざるを得ない所まで追い詰められる状況である。

平成21年10月の介護職員処遇改善交付金が出たのは、介護施設がどれだけ厳しい状況にあるのかの裏づけでもある。さらに悪い事に平成17年12月それこそ突然に、“介護療養型医療施設は平成24年をもって廃止”と決まった。

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